昭和52年11月20日 朝の御理解



 御神誡 「まめな時家業をおろそかにし物事におごること。」

 何かこれは、信心のない人に対する、御理解の様な感じがするんですけれども、実はやはり信心をさせて頂く者に、いわゆる真の道の心得とあるのですから、真の道を頂き、またはそれを求めながら、信心をさせて頂いとる者に対する、やはり誡め、いわゆる御神誡だと思うんですね。ですから「まめな時家業をおろそかにし」何でもない、言うなら平穏無事、何も不自由のない様な時に、信心をおろそかにしという風に頂かんならんと思うんですね。家業じゃなくて信心をおろそかにしてはならない。
 信心が真の道に添うた信心が出来れば、家業をおろそかにするはずはありませんからね。同時に「物事におごる事」、信心をおろそかにしておる時には、得てして物事に、言わば驕るというか、横着になるというか、信心をさせて頂いておりましても、信心いわゆる教えを芯にした行き方をしておりませんとです。いわゆる健康でもある。物にも不自由しない。金もある。となるとついつい物事に、いわゆる驕りが出て参ります。言うならば不平不足が多くなる。だけではない。
 言うならば自分の、信心との吊り合いも取れない様なものを求めたり、欲を起こしたりいたします。物事に驕って来るのです。私は今日初めてここんところをですね、これは信心のある者に対する、昔今もやっぱり同じでしょうけれども、お道のカレンダーがございます。そのカレンダーに御神誡がずうっと出ておりますのに、絵が描いてある、そして「まめな時家業をおろそかにし物事に驕ること」と丁度絵にお食事をさせて頂いておるんです。ところの場面が出て、皆さん持っておられる方もありましょう。
 そして食物やら魚でもまだ食べられるところをこう庭に捨て散らかしてから、御飯を頂きよるところがついております。だからとても信心しよるそげな事せんけん。これは信心のない者に対する御教えの様に思ておったけれども、そうじゃない。やはり「真の道の心得」なんですから、真の道も知らぬ人、信心の教えも聞いていない人は、まあ言うならば神様が知らん事だから仕方がないと言う事になりましょうけれども。
 金でも出来たり、物でも出来たりすると、やはりついつい出してはならないところに手を出したり、いわゆる贅沢三味にふけって、また、結局は元の木阿弥という事になるのですけれども、それはまあ仕方がない事としてです。信心のある者は、真の道にある者は、信心を頂いておる者は、に対する私は戒めだと思うです。ところが信心を頂いておりましてもです。やはりそう言う仇おろかな事を平気でする様になる。
 だから本当に信心をさせて頂く者の信心の眼目というものはね、言うなら焦点というものが間違いなく、言うならば昨日から頂きます様に、信心の言うならば基本姿勢といった様なものがです、本当に願われ、そしてそれが頂かれておらなければならない。まずは「どうぞ神様基本姿勢をしっかり頂かして下さい」と言う願いを持たれなければならない。家を建てるのに地形つきをしっかりする様なもんじゃ、地形つきもせずに家を建てるから、いわゆる砂上の楼閣的な事になってしまう。
 私は昨日の、あの福岡の伊藤さんのお夢を頂かれたというのを、繰り返し思わせて頂いて、本当に全教の者がみーんなこの様な具合になったら素晴らしかろうと。いわゆる基本姿勢が出来、分からせて貰い。そしてそう言う願いを持つ。基本姿勢が出来んなりに、ただそのなんて言うんですかね、まあ言うなら子供のくせに、大人の願いの様な願いをしただけではつまりませんけれども、基本姿勢が出来てです。
 なら昨日のお夢をもう一遍お話し致しますとです。もう、段々がずうっと高い一番上の所にある。これは言うならば最高の信心をという意味だろうと思います。そこに伊藤さんが立っておられる。下には合楽の御信者さんと思われる人がいっぱいおられる。その段階を一段二段上がって来ておる人が顔もおぼろげで分からない。足は片一方足がないと言う人、それをどなたかのお声で、「あの人と伊藤さんが結婚をしなければならん」と言っておる。普通で言うならば、とても顔も分からん。
 まあどげな器量の人かも分からん。しかも足の片一方なかことある人とはとても結婚は出けんと普通なら思うところだろうけれども、その一番上の方で伊藤さんが思うておられる事は、この人と結婚するんならばです。この人の本当に足にもならせて頂こうと思うて感動しておるところだったとこう言うのです。信心を段々高めて、そして言うならば基本姿勢、合楽で言われるところの、いわゆる成り行きを大切にする。
 全ての事に御の字を付けて何故かって、それが神様のあなたに対する働きかけなんだから、有頂天になる様な事であっても、有頂天になってはならない。どんな難儀な事であってもあなたに求めたもう、これは間違いのない天地の親神様の働きなのだから、それをお粗末にしてはおかげにならんと言う事。だと言う事が分かると言う事が基本姿勢なんです。あれは良いけども是はいらんと、もう既に物事におごっとるのです。
 自分の好きなもんだけは貰うけども、そんなもんな嫌だ、信心させて頂く者の心の驕りがそういう結果になる。好き嫌いをする。私は物事におごる事だと思う。そう言う基本姿勢が出来て、いよいよ神様の言うならば、手にも足にもならせて頂こうと言う事。まあ合楽で言うならば、親先生が金光大神に通じてござる。金光大神が天地金乃神に通じてござる。言うならば親先生の事を思い、親教会の事を思うという事、合楽教会の事を思うという事は、そのまま天地の親神様の事を思う事と同じ事なんです。
 その合楽教会大発展の為の御神願成就の為にです。神様の手にも足にもならせて頂こう。お役に立つ私にもならせて頂こうという願い。そう言う高度な願いに立っておりますとです。私は物事に驕ったり、いわゆる家業、信心を疎かにしたりは出来ません。信心が疎かに出来なければ、家業にまた疎かになる様な事もありません。私は今日も以前に宮崎の方の御取次をさせて、もう随分以前でしたけれど、あのう頂いたお知らせを今日また改めて頂いたんです。
 それはどう言う事かと言うと、あのうタレントに「三波伸介」と言う人がおりますでしょう。その三波伸介の、そのそして、その伸介が目ん玉をこんなにも開けてですね、目ん玉をギョロギョロさせておるところを頂いたんです。そしてその「三波伸介」と言う字を南、進助と書いて、「みなみしんすけ」とこう読ませてあるんです。それからでした、あちらの宮崎地区に、もうそれこそ眼を見張る様な御比礼が立ち出したのは。
 いわゆる「南米に布教」と言った様な事もそれからでした。もう南の方へ「南」「進む」そして「助ける」とこう言う事でしょう。記念祭にやっぱり宮崎地区から百六十名からの、御参拝があったと言うのですから、やはりそれこそ目を見張る様な一つの神様の働き、それをね、宮崎の言うならば難儀な氏子・信者を助けると言う事だけじゃないのです。先ずは宮崎全土にと言う事でございましょうけれども、宮崎の教会、高鍋の古屋と言う先生が、もう本当に瞬く間に、何十人と言うお導きをされました。
 それこそ目を見張る様な、そしてその先生が言われた事が、まあ一つの失言として、まあ、問題になっておると言う事ですけれども、「宮崎の先生方は眠っておられる。」と言う事を言うたちゅうんです。だからもし宮崎の先生方が、はあほんなこつ眠っとる思て、目をさましたら、素晴らしかろうと思いますね。「信者のくせに教師の事をそういう事を言うた。」とこう言う訳なんです。そして今度宮崎の方で、一年の宮崎支部発会の一年の記念祭があった。
 もうたまたま合楽から、美登里会の方達があちらに旅行となって、それこそ何十名の方があちらへ行ったから、まるっきり宮崎に押し掛けて行った様に言うている訳です。そして「けしからん、合楽はその宮崎に出張布教をする」と言われておる訳なんです。「今度の教師会でいよいよ問題になるから、石川さんあんただけは覚悟をしとけ」と言わられたと言う訳なんです。
 ですから、もし本当に宮崎の先生方が基本姿勢が出来ておって、本気で神の手にも足にもならせて頂こうと言う、先生方の大体はそれは本当は願いであり、そうなからなきゃ嘘なんです。神の手、足になろうと思うてお道の教師でも志したんですから。それなのに、基本姿勢が出来ておらんから合楽から混ぜ繰りに来た様な見方をする。本当に合楽の神様が言わば南の方に助けずにはおかんと言う働き、混ぜ繰り来ると思うから腹が立つ。本当に金光教が一新しなければならない。
 金光教の言うなら、曲がり角と言うよりも、もう本当に、ついこの頃まで五十万と言うとったのが三十万になったと言う程しの、言うならば下り坂にある金光教。だから「これではいかん、これではいかん」と言うておる人達が、ならどう言う風にこれではいかんと言う信心を建て直そうとしておるか、その建て直しの、言うなら絶対の建て直し、絶対の生き方。しかもなそうと思えば誰でもなせれると言う様な行き方がです。今言う成り行きを大切にするいわゆる合楽理念なんです。
 ですから本当に、合楽のおかげで目が覚めた。合楽のおかげでです。例えば信者が盗られたの、盗ったのと言う様な事ではなくてです。その事によって奮起一番、言うならば教師の教師たるところをです。現して行こうと言う様な行き方をさせて頂いたら、本当に信心を疎かにしておる。物事に驕っておるから、そう言う結果になるんだと、もし先生方が悟られたら、それこそ、なら合楽が、まあ言うならば、「大変な御比礼だそうだが、それならどう言う信心をしとれば、そう言う人が助かる事になり。
 なら宮崎辺りに、たった一年間で百何十人もの信者が出来たか」と、その元を探り求めさせて頂いたらです。言うなら、はっきりと信心の基本姿勢、そして願わなければならないのは、神の手足にもならせて頂こうと言う願い。そう言う、言うならば願いに一新されたらです。本当に神様の願いであるところの南の方へ助けずにはおかんと言う働き。それこそ目を見張る様な宮崎地区に御比例が輝く事でしょう。
 今日のこの御神戒からです。私共がね「信心を疎かにし物事におごる」と言う様な事のない。言うなら、で済む信心を頂くという事はまず基本姿勢を頂いて、願いが高度のところにおかれて、進んで行く限り、どういう平穏であろうが、無事であろうが、壮健な時であろうがです。物事に驕る事もございませんでしょう。又は信心を疎かに、家業を疎かにするな事を尚更ないでしょう。ですからね、ただ「贅沢をしてはならん、疎かにしてはならん」と、「家業を疎かにしてはならん」と言う。
 言うただけではなくて、もう、疎かに出来ない根本のところを握っておかなければならんという事です。信心はこれは私は信心のない者に対する様な、まあ感じだったんですけども、改めて今日は、この「まめなとき家業を」という事をです。「まめな時信心を疎かに」という事になると、そこがはっきりして来ますし同時に、「真の道の心得」であり、又は「御神戒」であるからには、やはり真の道にある人。
 言うならば信心の道にある人に対するこれは御教えだと今日は改めて頂き直した様な訳でした。どうぞ一つ、物事に驕ったり、疎かにしたりしておかげを落として否を見るよりも、泣きを見るよりも、いよいよ有難い高度な所の信心に目指さして貰うて、日々をそれこそ有難い。しかも、たのしゅう愉快に信心を進めて行けれる道を辿らなければならんと言うことですよね。
   どうぞ。